文豪人気投票No.1!夏目漱石について
こんにちは!コラムスタッフ・アオノです。
2017年10月にブックオフオンラインの公式Twitter(@bookoffonline)で開催した文豪人気投票に、たくさんのご参加、本当にありがとうございました!
結果は、夏目漱石と太宰治、接戦の末の同点1位!
今回は、文豪人気投票No.1の一人、夏目漱石について、作品とエピソードを一緒にご紹介します!
夏目漱石とは
夏目漱石といえば、千円札の肖像画にも使われており、大衆に愛されるヒット作を沢山書いた人物。その顔を見たことがない人はあまりいないのではないでしょうか。
夏目漱石の顔や作品を知っていても、その経歴や、彼が極度の甘党ということや、ロンドンに留学していたことなどのような、プライベートなエピソードはあまり知らなかったりするものですよね。
まずは夏目漱石の経歴を、おさらいしましょう!
夏目漱石はペンネーム
夏目漱石。本名は「夏目 金之助」といいます。
1867年2月9日生まれ、今から150年前ですね。まだ江戸だった頃の牛込馬場横町(現在の東京都新宿区喜久井町)で生まれました。
学生時代、22歳の時に、同級生だった正岡子規と出会い二人は意気投合。親交を深めていきます。正岡子規のペンネームのひとつに「漱石」があり、それを夏目漱石が譲り受け「夏目漱石」のペンネームを使い始めた、と言われています。
「漱石」は中国の四字熟語「漱石枕流」から来ているそうです。本来なら「石に枕し流れに漱く(くちすすぐ)」と言うべきところを「石に漱ぎ流れに枕す」と言ってしまった孫子荊(そんしけい)が誤りを認めず言い逃れをしたことから「負け惜しみの強いこと」「頑固者」なんて意味がある言葉です。夏目漱石は自分にぴったり!と思ったんでしょう。
正岡子規と出会わなければ、違うペンネームになっていたかもしれませんね!
ロンドン留学で、夏目漱石発狂す!
漱石は、帝国大学(現代の東京大学)の英文科を卒業し、松山中学、熊本の第五高等学校で英語を教えた後、イギリスに留学をします。
ところがこのイギリス留学、とても苦労したそうです。慣れない異国の地、経済的な面や差別などもあり、神経が弱っていくんですね。そしてとうとう「漱石が発狂した」という知らせが日本にも届いてしまうほど。
また、漱石がイギリスに留学中、親友の正岡子規が亡くなります。遠いロンドン、漱石が訃報を受け取ったのは、正岡子規が泣くなった約2か月後だったそうです。
漱石執筆をはじめる
漱石はイギリスから帰国後も、なかなか神経が回復しない。そこで、漱石に「小説でも書いてみたら?」と言ってくれた人がいました。
それが、高浜虚子です。
高浜虚子は、俳人であり小説家。俳句の雑誌『ホトトギス』を創っていた人のひとりです。漱石は、東京帝国大学で講師として英文学を教えながら、執筆活動を始めることになりました。
そしてあの代表作『吾輩は猫である』をホトトギスで発表して一躍有名に!
翌年には『坊ちゃん』を発表、その後『倫敦塔』や『草枕』などの作品を数々執筆。
1907年に教師を辞め、朝日新聞社に入社し『虞美人草』の連載を開始。本格的に作家として歩き出すことになります。
胃潰瘍が悪化する
夏目漱石は晩年、『明暗』の執筆中に胃潰瘍を悪化させてこの世を去りました。なので『明暗』は未完の傑作と言われています。
漱石は亡くなるまでに、何度も胃潰瘍を患い、さらには神経衰弱にも悩まされていきます。極度の甘党だったので、糖尿病も併発しましたが、甘いものを食べるのはやめられなかったといいます。
作家たるもの、そのストレスも相当だったのかもしれませんよね。甘いものが、漱石の心の癒しだったのかもしれない、と思うと、甘いものを絶てない気持ちもよくわかります……。
こういった体の不調がありながらも、数多くの小説を執筆していた漱石にも、数々のエピソードが語り継がれています。
その中から、私が興味深いと思ったエピソードを3つご紹介します。
『吾輩は猫である』は本当に名前がなかった?!
『吾輩は猫である』の「吾輩=猫」は漱石が飼っていた猫、そして吾輩の主人である珍野 苦沙弥(ちんの くしゃみ)は漱石自身がモデルだと言われています。
というのも、夏目一家は飼っていた猫を「ねこ」と呼んでいたようで、名前はなかったそうなのです。漱石は犬も飼っていましたが、犬にはちゃんと「ヘクトー」という名前がついていました。
しかし「ねこ」と呼んでいたからと言って、かわいがっていなかった、ということではないようで、漱石はこの「ねこ」が亡くなった時、庭に埋める亡骸の入った木箱に「猫の墓」と書いて、その裏面に一句添えています。
「此(こ)の下に稲妻起る宵あらん」
新聞を読む漱石の背中に乗ったり、子どもたちにちょっかいを出したりと、悪戯猫だったと言います。その猫を小さな稲妻に例えたのか、猫の目の輝きを稲妻に例えたのかもしれません。また翌日、漱石は友人たちに、猫の死亡通知のハガキを送っています。
「ねこ」と呼ばれ続けた猫ですが、夏目家に愛されていたんだと感じるエピソードです。
さて「吾輩」のモデルが「ねこ」であることはわかりましたが「珍野 苦沙弥」のモデルが漱石である、というこんな甘党エピソードがあります。
ジャムが大好き漱石
『吾輩は猫である』では、吾輩の主人、珍野 苦沙弥が「ジャムを嘗める」シーンが登場します。
今月は家計が苦しいという妻に、そんなはずはない今月は余るほどだ、と苦沙弥は反論します。しかし「あなたがジャムを嘗めるからだ」と怒られ、今月は8缶開けたと言われてしまいます。
また苦沙弥は胃病を患っているのですが、妻が「ジャムばかり嘗めているから胃病が治る訳がない」とこぼしている場面もあります。
実際、漱石はジャムが大好きで、パンに乗せて食べるのではなく、それこそジャムを嘗めていたそうです。ひと月8缶ジャムを開けたのも、漱石の話だと言われています。
驚きですよね!しかもパンに乗せるのではく、嘗める。さらには、ジャムの上に砂糖を乗せて食べるのも好きだったとか。それはさすがに、体調を崩しますよね……。
また漱石は羊羹も大好きで、妻が漱石の体調を気遣い羊羹を隠した際には、いつも羊羹が入っている戸棚を必死に探したそそうです。するとそれを見かねたまだ幼い娘が、羊羹のありかを教えてくれて、漱石は喜び娘を大いに褒めたとか。
胃潰瘍であり、糖尿病も患っていた漱石、医者から止められていたのもかかわらず、甘いものはやめられなかったそうです。
でもジャムを嘗めたり、甘党だった、と聞くと、とても親近感がわいてきますね。偉大な文豪がちょっと身近に感じられるエピソードです。
そんな漱石ですが、亡くなったのは胃潰瘍が原因でした。
漱石がこの世を去る最期の言葉をご存知でしょうか?
漱石最期の言葉
49歳でこの世を去った漱石ですが、最期の言葉はこれだったと言われています。
「ここへ水をかけてくれ。死ぬと困るから」
胸をはだけさせた漱石に看護師が霧を吹きかけると、そのまま息を引き取ったそうです。
患っていたのは胃でしたが、なぜ胸に水をかけて欲しかったのでしょうか。暑かったから、というような単純な理由ではきっとないでしょう。もっと生きていたいという想いの現れだったのでしょうか。
それは誰にもわかりませんし、死の間際で言った漱石の言葉の真意は不明ですが、漱石が遺した最期の言葉は、まるで小説の一節のようにも感じます。
漱石の作品は、どこか幻想的な世界観があるような印象があります。
私は漱石の、現実的でありながらも、夢を見ているような世界を描いているところがとても好きです。
夏目漱石の青春小説
『三四郎』
夏目漱石の作品の中で、新潮文庫で累計部数が一番多いのは『こころ』で、2014年7月の時点で、700万部を突破したことがわかりました。この累計部数は、新潮文庫の歴代1位なのだそうです。
わたしが夏目漱石の作品でおすすめしたいのは『三四郎』。
この作品は、『三四郎』『それから』『門』と続く、夏目漱石前期三部作の一作目です。
熊本の高等学校を卒業して、東京の大学に入学した小川三四郎は、見る物聞く物総てが目新しい世界の中で、自由気儘な都会の女性里見美禰子に出会い、彼女に強く惹かれてゆく……。青春の一時期において誰もが経験する、学問、友情、恋愛への不安や戸惑いを、三四郎の恋愛から失恋に至る過程の中に描いて「それから」「門」に続く三部作の序章をなす作品である。(新潮文庫版 表紙カバー裏)
私が『三四郎』を読んだのは、丁度大学生の頃。同じ大学生の三四郎の恋愛、苦悩、葛藤が、目の前に浮かんでくるような気持ちがして、忘れられない一作です。
三四郎は、大学の池で、里見美禰子と出会います。美禰子は、当時にしてみれば、都会的であり、高い美貌と教養を持ち合わせた女性です。三四郎は今まで会ったことがないような女性美禰子に惹かれ、そして翻弄されていきます。
美禰子が口にする、意味深長な言葉の数々に、読んでいるこちらも翻弄されていくような気持ちがします。美禰子の醸し出す雰囲気は、幻想的な気分にさせられますよ。
青春小説とも呼ばれる『三四郎』、是非一度読んでみてくださいね。
夏目漱石を楽しんで
いかがでしたでしょうか?
夏目漱石の作品を読んでいて、ジャムや羊羹などが出てくると、ちょっとにやっとしちゃいそうですね。
みなさんは夏目漱石作品で何が一番好きですか?
これを機に、ぜひ手に取ってみてください。
今回ご紹介した書籍
『三四郎』新潮社
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