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読書とはなんだろう?日本の読書のあり方について


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本を読め、とは子どもの頃から言われてきたことだと思います。私も子供のころから大人に、本を読めと言われたことは何度もあります。子供のころは、「大人はみんな本ばっかり読んでいるんだなぁ」と思って生きてきたものでした。しかし、電車に乗ってみると、お疲れで寝ている人はさておき、起きていてもスマホばかりで、本を読んでいる人はあまりいないように思います。(もちろん今はスマホで本が読めますけど。)

一方で、魔法のような文句で飾られた速読本や、読書法関連書があふれていたり、テレビで紹介された本がまたたく間に売れ筋本ランキング1位を獲得したりと、読書への関心は非常に高いようです。しかしなぜだか、テレビやネットと比べて読書のわるい噂はあまり聞くことはなく、読書一般の評判は高いように思います。読書のなにが良いのでしょうか。ちょっと考えてみました。

 

読書ってなんだろう

「読書」という言葉、すこし重たさを感じませんか。私は、この「書」という文字にどうも重みを感じるのです。一般に通用する「読書」には、漫画やラノベ、週刊誌といった、娯楽に特化した本を読むことは含まれておらず、ある程度の知識の獲得と言った「精神鍛錬」の要素を含む本を読むことを「読書」といっているように私は感じています。

読書量に関して、一ヶ月に30冊読んだ、といった場合、週刊誌や漫画をカウントする人はあまりいないですよね。週刊誌や漫画を読書量にカウントするなんて、なんとなくずるい感じがしませんか。

このように、そもそも読書という言葉には、「すこしがんばって鍛錬になる本を読む」というニュアンスがあるのではないかと思います。こういった鍛錬的要素が読書に含まれているから、読書を続けたいけど続かないだとか、読書術に関する本が次々と出版され、売れていくといったことが生じてくるのだと考えています。もちろん、こうした鍛錬的読書も大事ですし、読書術も必要なことですが、私は「読書」という概念はもっと広めるべきだと思うし、それによって、自然と鍛錬的読書もできるようになるはずだと思っています。

 

「読書」と学校教育

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読書の鍛錬的ニュアンスは学校教育にも伺えます。日本の学校教育は、「読書はやらされるもの」「読書は努めてするもの」といった考えを与えがちです。たとえば、「読書マラソン」や「課題図書」。前者は、読書を鍛錬として捉えるならば、読書をつらくても達成感のあるマラソンに例えることは適切と言えるでしょうが、果たして読書は最初からそんなにつらいことでしょうか。後者については、“読んで字の如し”です。

また、どちらも読書する目的が別のところ(読んだ冊数を増やす、宿題を片付ける)にあるのが問題です。こうした押し付け的教育は、世間の「読書」のイメージによって形作られ、そのイメージを再生産していく危険があると思います。

ちなみに、私は子供に本を読ませるには「読み聞かせ(朗読)」がベストだと思います。読み聞かせは、必然的に自発的な読書になります。なぜなら、つまらなかったら聞かなければいいからです。でも子供はきっと、自発的に聞くことが多いでしょう。「読み聞かせ」というと低学年向けのイメージがありますが、なぜ大きくなるにつれ、本は一人で黙読をするものへと変わっていってしまうのでしょうか。

 

娯楽のための読書

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イギリスの作家、サマセット・モームは読書について、読書のあり方に再考を促すような興味深い意見を述べています(『読書案内』岩波文庫)。それは、資格や勉強のために本を読むことはやむを得ないが、基本的に「読書の目的は娯楽である」ということです。

漫画を読むにしても、難しい古典を読むにしても娯楽であるべきだというのです。モームが読書をすすめる理由は、読書がすぐれた娯楽だからです。ここで、モームにとって、娯楽は低俗だとか、読書は高尚だ、とかいう先入観がないことに注意が必要です。モームは読書を習慣づけるメリットとして、次のようなことを挙げています。

・知的な娯楽ほど長持ちし、満足を与えるものはない。
・年をとってからも楽しめる数少ない娯楽である。
・多くの娯楽と違って、相手が必要ない。
・気の向くままにできる。
・少ない元手で多くを得ることができる。

モームは、もう一つ面白いことを述べています。それは、「ひとはだれでも、そのひとにとっては、自分自信が最良の批評家である」ということです。

モームは、もしあなたが、周りの人間が高く評価する本を読んで、おもしろくないと感じても恥じる必要はないし、世評の高い本を義務感で読む必要もない。あくまで、自分にとって重要で興味をひく本を読みなさい、とアドバイスしています。

テレビで名著と言われていたので買ってみたが、30ページで挫折した、ということは、みな経験することです。その時「やっぱり読書は向いていない」と思うか、「この本は縁がなかった。もっと面白い本を読もう」と思うかは、大きな違い。モームの考えは一つの見方であることを忘れてはいけませんが、彼の読書アドバイスは、世評やメディアの影響力の強い現代にこそ有意義なものではないかと思います。

 

読書のいいところ・わるいところ

「読書はいいこと」ということは定説のように思います。しかし、読書の害についても考えておいたほうがいいでしょう。読書有害論のバイブル(?)といえば、ショーペンハウアー氏の書いた『読書について』(岩波文庫ほか)です。彼の考えは、読書とは他人にものを考えてもらう行為で、一日中本ばかり読んでいると自分でものを考えられなくなる、というものです。「読書は他人の頭で考えること」とも言っています。私なんかは、ご自身随分本を読んできたであろう、ショーペンハウアー氏が、痛烈に読書批判をしているあたりフェアではないと思ったりしますが、読書好きならば忠告として覚えておいても損はないでしょう。しかし、「他人にものを考えてもらうこと」は読書のいいところでもあるとも思います。

個人的な意見ですが、読書のいいところは次のようなことだと思います。

・語彙が増える。
・色々な時代、地域の人と対話できる。
・自分の違った世界・考えをのぞくことができる。
・相手の立場、考えを理解できる。
・広い視野や見識がつく。
・自分と違うものに対して寛容になれる。etc.

一言で言ってしまえば、「思いやり」です。(なんだか『論語』みたいですね)

さて、読書は、ショーペンハウアー氏によれば「他人の脳で考えること」でした。彼の言う通り、他人の思考に便乗する分、自分で考える労力が省かれるわけですが、その代わり、読書は他人の頭にあることを読み取り、気持ちをおしはかる力を養います。こういった想像力こそ思いやりを培うとは思いませんか。

一方、「自分でものを考える力を失っていく」という点は、教訓として示唆に富んだ読書批判です。読書によって考える力を失う、という批判は、クリティカル・リーディング(批判的読解)が身についていればあたらない、と言えますが、世の中必ずしもそうではなく、活字にすると真実味が増すように考えたり、無批判に本の内容を信じたり、といった傾向は依然存在すると思います。

読書だって、いいところもあれば、わるいところもあります。「学びて思わざれば、則ち罔(くら)し、思いて学ばざれば、則ち殆(あやう)し」(『論語』)です。

 

まとめ

以上、日本の読書のあり方に関する個人的な違和感でした。「読書」という言葉のもつ鍛錬的なイメージについては、賛否あろうかと思います。実際、天性の本好きは、本が読みたいから読むのであって、鍛錬とか知識とか、そんなことはどうでもいいと言うでしょうから。それでも、どこか読書に抵抗を感じている読者がいたら、モームのような考えがあることを知って、もっと自分本位で自由な本とのつきあいを見つけていただけたら、と思います。