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江戸時代、日本語に「社会」はなかった―『翻訳語成立事情』


翻訳語成立事情

ふだん私たちがよく使っている「社会」という言葉。実は明治時代に出来た言葉である、ということをご存知でしたか?

実は「社会」という言葉は、明治時代に「society」という外国語を翻訳する過程で生まれた新造語なのです。こういった翻訳で生まれた新造語のことを、「翻訳語」といいます。

今回ご紹介するのは、この「翻訳語」について深く知ることのできる1冊です。

 

『翻訳語成立事情』表紙

翻訳語成立事情
柳父章(著)、岩波新書

 

「西欧の物や概念を翻訳する」ことの難しさ

幕末の開国後、日本は西欧諸国の文明を学ぶ必要に迫られます。
そのため、数多くの西欧の文献が翻訳されていくことになるのですが、これは非常に難しいものでした。

今まで日本語に存在していなかった物や概念を表すのに、ふさわしい日本語の単語がなかなか見つからなかったのです。

明治の知識人たちは、様々な造語を作り出したり、あるいは今まで日本語で使われてきた単語に新しい意味を「追加」しようとしたりと、試行錯誤を重ねていくことになります。

 

この本では、そのような翻訳語の中から「社会」「個人」「近代」「美」などの10語を取り上げ、それらの翻訳語がどのようにして生まれ、広まっていったのかを解説。

江戸時代~昭和のそれぞれの時代において、その言葉がどのように辞書や翻訳文の中で訳されていったのか、その移り変わりを実例を挙げながら考察していきます。

新しい概念を受け入れるために試行錯誤し、翻訳語の意味の受け取り方の違いで混乱が生じるさま。それらが手に取るようにわかりますよ。

 

「社会」という翻訳語が生まれるまで

例として、第1章で解説されている「社会」という言葉を見てみましょう。

「社会」という言葉は、英語の「society」に対応する翻訳語です。しかし「社会」という言葉は、もともと日本語には存在しない言葉でした。

言葉が存在しないということは、もちろん「society」に対応する現実が日本には存在していなかったということを表しています。

 

「society」を表す西欧語との出会いは江戸時代にさかのぼります。

それはオランダ語の「genootschap」で、これは英語の「society」にあたる単語です。
これは、当時の辞書を見ると「交ワル 集マル」「寄合又集会」などと翻訳されていたことがわかります。

 

幕末になると、フランス語「société」や、英語「society」の訳語として「仲間、懇、交リ」や「仲間、組、連中、社中」という言葉が辞書に登場するようになりました。
これらの訳語は、いずれも「狭い範囲の人間関係」を指す言葉です。

しかし「society」はこれらの意味のほかに「広い範囲の人間関係」という意味を持っていました。「仲間」では「society」の訳語としては不十分だったのです。

 

1868(慶応4)年に出版された福沢諭吉の「西洋事情 外編」では「society」の訳語として「人間交際」という言葉が用いられています。
ところが「交際」もやはり狭い範囲の人間関係を指す言葉で、特に対等の関係にある人どうしの関係を指していました。

しかし、福沢諭吉は「society」という西欧語を意識しながら「交際」に「広い範囲の人間関係」という新しい意味を造り出そうとしたのです。

 

「社会」という言葉が誕生するのは、明治に入ってから。そのころ「社」という言葉が流行しました。

同じ目的を持った人々の集りを表す言葉で「◯◯社」という団体がたくさん作られていきます。
そのひとつ「明六社」は、福沢諭吉や西周などの知識人が所属した団体です。

明六社の発行する「明六雑誌」において、この「社」という言葉が「会」と合わさり、「社」の「会」としての「社会」や、「会社」という言葉が「society」に近い言葉として使われるようになっていきます。

 

さて、日本語にはすでに広い範囲の人間関係を指す語として「世間」という言葉がありました。
長い歴史を持つ「世間」に対し「社会」は新造語であり、その意味内容は抽象的で分かりにくいものでした。

しかし、福沢諭吉は「学問のすすめ」の中で、この「世間」という語を「society」つまり「社会」とは対立するものとして書いています。

まず端的に言って、「社会」はいい意味、「世間」は悪い意味である。それは、これらのことばの前後の文脈から分る。「社会」の人事、すなわち出来事は虚ではない。が、「世間」の栄誉は、士君子、すなわち学問に通じ徳の高い人の求めるべきものではない、というのである。(p.18)

 

こうして「社会」という言葉は、その意味内容が抽象的でありながらも、肯定的な意味を持つ言葉として受け入れられていき「society」の翻訳語として定着することになりました。

 

「翻訳語」は「意味が分らない」からこそ惹きつけられる

「社会」の例で見たように、翻訳語はもともと意味に乏しく、分かりにくい言葉でした。しかし、翻訳語は意味が分かりにくいからこそ乱用されていったと著者は書いています。

分らないのだが、長い間の私たちの伝統で、むずかしそうな漢字には、よくは分らないが、何か重要な意味があるのだ、と読者の側でもまた受け取ってくれるのである。(p.36)

 

当時つくられた翻訳語には、漢字2字の組み合わせでつくられているものが多くありました。

それまで日本は、中国などから漢字を通じて先進的な文化を受け入れてきたため、漢字の組み合わせでつくられた言葉を「上等な言葉」としてとらえてしまうのです。

このような現象を、著者は「カセット効果」と名付けています。「カセット」は宝石箱という意味で、翻訳語には「中味が何かは分らなくても、人を魅惑し、惹きつける(p.37)」効果があるというのです。

第7章「自然」において、こう書かれています。

ここで、この「自然」ということばに、翻訳語に特有の、あの「カセット効果」が働いているのだ、と考えられるのである。実はよく意味が分らない、が重要な意味がそこにはこめられているに違いない。そういうことばから、天降り的に、演繹的に、深遠な意味が導き出され、論理を導くのである。(p.142)

 

言葉の生まれる過程を知り、その複雑さに気づく

この本で紹介されている翻訳語は、現代の私たちは翻訳語であることを意識せずに使っているものばかりです。

しかし、翻訳語がどのように生まれ、使われていったのかを改めて学んでみると、その意味がいかに抽象的で、かつ複雑なものであったかに気づきます。

新しい概念を受け入れることの難しさ、その試行錯誤の歴史を読むことで、言葉に対する意識が変わっていくことでしょう。

 

今回ご紹介した書籍

翻訳語成立事情
柳父章(著)、岩波新書